聖和教会 & 附属:聖和幼稚園
by seiwach


2005年 クリスマス讃美礼拝のお知らせ

 説教題   【 朽ちない冠を得るために 】
      聖書ーコリント人への第1の手紙 第9章24節~27節より
            ~あなたがたも、賞を得るように走りなさい~

平成17年12月24日(土) 午後6時より
                (開場 午後5時30分)
 
あなたの心に何よりも素敵なプレゼントをお届けします。
どなたさまも、どうぞお気軽にお越しください。
 
聖書と讃美歌は教会で用意しております。 


 クリスマス礼拝 説教題 【義とされる】
     聖書ーローマ人への手紙 第3章21節~31節より          
     平成17年12月25日(日) 午前10時30分より 
      
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# by seiwach | 2005-11-28 22:37 | What's New

特別伝道(第二)礼拝説教  2005年10月16日(日)

 説教題   【 走り寄って来る神 】
      
      聖書-ルカによる福音書 第15章12節ー24節
           
      小友 聡 牧師 (中村町教会牧師 東京神学大学助教授)

 ある人に二人の息子がいました。弟の方は父から財産を分けてもらうと、さっそく旅に出ました。遠くの国で、もらった財産を放蕩で使い果たした時、折悪くも飢饉が起こり、息子はとうとう食べることにすら窮しました。彼は農家に身を寄せて豚を飼う仕事を貰いましたが、空腹に耐えきれず、豚の餌でもいいから食べさせてほしいと願うほどでした。息子はどん底まで落ちたのです。
 その時、彼は我に帰りました。父親のもとに帰ろう。けれども、彼にはもう息子と呼ばれる資格などありません。父の思いを踏みにじった自分を深く悔いて、彼はとぼとぼと家に向かうのです。
 さて、父親はどうしていたでしょうか。放蕩息子に愛想を尽かしていたでしょうか。いえ、そうではありませんでした。父親は待っていたのです。息子が帰ってくるのを。驚くべきことに、遠くから息子がやって来るのを見つけるや父親は息子に駆け寄るのです。息子が父親に駆け寄ったのではありません。父親の方が息子に駆け寄ったのです。
 聖書には父親が息子を「憐れに思った」と書かれています。これは、はらわたがちぎれる、というほどの強烈な意味の言葉です。父親は胸が引き裂かれるほど憐れに思い、自分の方から息子に向かって走り寄りました。そして、息子の首を抱き、接吻をし、大喜びで息子を家に招き入れ、祝宴が始りました。父親は放蕩息子を無条件で迎え入れたのでした。
 ところで、これとよく似た出来事が旧約聖書に記されています。それは預言者ホセアの物語です。神はある時、ホセアにこう命じました。「淫行の女を娶れ」。そこでホセアはゴメルという女を妻に娶りました。幸せな生活が始り、彼は三人の子供に恵まれました。ところが、妻ゴメルは夫ホセアを裏切り、家を出てしまうのです。ゴメルは町の娼婦に戻ってしまった。妻に裏切られたホセアは苦しみにうめきました。彼は妻を赦すことができません。
 そのホセアに再び神の言葉が臨みました。「夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」。その命令を聞いて、ホセアは町に出ました。彼はゴメルを捜し歩き、奴隷となっていた彼女をついに見つけ出し、相当の銀貨で買い戻したのです。赦せないゴメルをホセアは神の命令とおり受け入れました。これは預言者ホセアの象徴行為でありました。ホセアが示したことは、神に背き離れ去ったイスラエルの民をそれでも神は見捨てはしない、というメッセージだったのです。その神ご自身の赦しの愛を知るために、ホセア自身がそれと同じ体験を神から与えられたのでした。神の激しい思いがこう記されています。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」。妻ゴメルを捜し求めるホセアの姿の中には、憐れむ神の姿がはっきりと映し出されています。ここには、あの放蕩息子を走り寄って迎えた父親と全く同じ赦しの愛があるのです。
 この常識を超えた破格の愛。ここに救い主イエス・キリストの姿がはっきりと浮かんできます。イエス・キリストは最もむごい十字架刑を自らお引き受けになりました。私たちが犯してきたすべての罪を赦すために、主イエスはご自分を犠牲にし、私たちの身代わりとなって十字架で死を遂げたのです。私たちに示して下さった神の無条件の赦しがここにあります。十字架のイエス・キリストこそが走り寄る神の姿を示しているのです。
 今朝、この救い主イエス・キリストの前に私たちは招かれています。たとえ私たちが放蕩息子のように神の目から見て失われている者であったとしても、いや、そういう私たちであるからこそ、主イエスは招いて下さるのです。今日私たちは招かれています。一人残らず皆、この聖和教会に招かれているのです。この招きの言葉を受け入れ、共にキリストを信じて歩みだしましょう。
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# by seiwach | 2005-11-28 22:11 | What's New